感情の変化、即ち感動

毎度毎度タイトルが長ったらしいうえにいきなり何を言い出すんだと言わんばかり唐突な内容ではあるけども、思いついたことは書き残さずそのままにはしたくない性分なので書いていくことにしておく。

で、タイトルの話になるが、一般的に活用されている感動という言葉は涙を流す時の表現に用いられるように嬉しいやら悲しい悔しいといったものがほとんどであるが、実際には個人が持っている感情、大まかに喜怒哀楽にくくった場合、その4つの要素が自分の中で入れ替わることが感情が動く感動と考える。
だから、楽や怒への変化も感動、喜→怒の変化も感動だと思っている。文字通りであるが、それこそが本来持ち合わせている意味合いではなかろうか。
今回言わせていただいた感動という言葉の意味に留まらず、様々な用語が本来の意味からかけ離れているんじゃないかと感じる。
捉え方を間違えやすい典型的な例としてよく挙げられる「情けは人のためならず」はもとより「自業自得」も該当すると思う。
自分が行ったことが自分に返ってくる意味合いでよく不正をしでかしてあとで痛い目を見た輩に対して使われる言葉ではあるが、意味を考えてみると言葉の中の業は「行動」であり恐らく周囲に対するものを表すようであるので「自分が行った行動は自分の得となる」となり、全く悪い意味合いとは思えない。
マイナスな意味合いで用いても当てはまるためそれが浸透したと思うが、得の字が入っている言葉をマイナスな意味で使用することは何とも不思議な話である。
てはいっても、これに関しては意味は同じで捉え方の問題か。


さて、新小岩到着だぜ(笑)
定刻通りでバスじゃなくって良かったとつくづく感じる。
東京の天気はご機嫌斜め寄り。
退屈に移動時間過ごすよりは自己満足の駄文であれ何かしら作り出している方が何だかすっきりしますね。