初心?初志?

仕事の意味ってなんだろう、と言うより、何のために仕事するんだ?って考えたとき、自分の場合「人のため」「やりがいのため」って思い浮かぶんだが、具体的に誰?何?って考えるとイメージが浮かばない、けど沢山の人が浮かぶ。となると不特定多数のためなんだ、と思う。んじゃもひとつ掘り下げて、その不特定多数の人に何をする、或いは何をされたいんだって考えたらば、結果として「助ける」困ってることを解決する」ことをしていき、相手からは「感謝」されたいって思っているところがあり、そうとすると、やはり自分の為であるんだなって思えてくる。マズローの社会的欲求にも自己実現があるが、その自己実現にも色々あると感じており、先述した自分が描いている事を実現するっていう今俺自身が持つ仕事の意義ってのは、その自己実現の中でも低い位置に値すると思う。じゃあさらに上を行くものってなんだ?って考えると「夢を与える」ことだと思う。特にプロスポーツ選手や警察、消防とかはイメージしやすいかもしれんが、仕事している姿や、産業であったら実際に稼働しているシステムや製品、料理などで、見ている相手を影響することかなと思う。が、「実はこうでした」的な余計な種明かしで想像力を削ぐマスコミの過剰介入でそれらを濁しているのが気に障るところである。
とまあ、仕事のみの観点で考えてみたが、仕事自体も個々人が描く理想的な「生きる」という目的ための「手段」にすぎないと考える。手段の目的化という言葉があるが、これだけにはなりたくはないと意識しつつも、無意識のうちにその状況に陥ってしまっている事があった。例を挙げるなら、外側から見た会社のウリ(アピールポイント)を作りだそうと、特定の資格取得率向上を目指し会社を挙げて資格取得を斡旋する会社がそれにあたる。資格取得しようが、それをただただ見せびらかし終いでは持ち腐れである。そもそも、資格というもの自体、何かをするために必要な要素であり、それを持っていりゃ万々歳というわけではない。むしろここからが始まりなんだと考えるところじゃないんか?と考える。
同じような形で、食事に対するニーズがある。かつては、生きるうえでの「栄養」を摂る事が目的(主眼)だったのに対し、今現在では食を楽しみとする「味わい」「見栄え」などが目的に変化している(すべてがすべてじゃないが)。これも一つの手段の目的化の実例と考える。
偏見めいた極論を結論にするのはたまったものではないが「必須」よりも「なくてもよいが、あったほうがいい」や「全く必要ない、よく言えば新たな価値」が重んじられるこの時代においても、何が一番の目的か、必須なものか、ってのを消費やする、使う側についてもしっかり考えていく必要があるなと、個人としては感じている。