ゴールと呼んでいるものは新たなスタートなんだろう

いつ始まったかは覚えていないが、本日をもって冬季五輪が閉幕した。俺の不安定な仕事状況もあり、意識が五輪に向くことはあった、が、借家はテレビを外しているので、見るときのほとんどがラジオやケータイワンセグからだった。とはいえ、実際に見るようになったのはお茶の手伝い(苗木植え)の作業の時に、五輪の話題がちらちらと出てからであり、その中でも実際にアルバイトで来ていた方が五輪に選手として参加してるって話を聞いたことが具体的なきっかけである。そのときすでに本人の競技は終わり結果が出た後であった、ただ、その週に発刊されていた週間新潮だか何かに(普段は中吊りの内容が嫌で嫌で仕方ないので読まないようにしているが、今回はほかの方が買ったのを見せていただいた)書いてあり「今まではオリンピックに出ている人って、とても雲の上のような存在で、国をあげて育成されていく人たちの集まりなんじゃないかって思っていたけど、実際はそうじゃなく、一庶民という同じ立場の人間なんだろう。確かに、類まれな要素を秘めているあたり、一線を引いて違う存在として扱う風潮があるにしろ、それをただただ鵜呑みにしているってのは違うんじゃないか?」って思えてくるようになった。
感動した場面(涙線が緩んだ場面)※序盤はほとんど見てない

  • ノルディックスキー・ジャンプの団体戦の葛西のジャンプ・・・言葉抜きできた。ベテランが奮起する姿が与える感動は計り知れない。
  • 閉会式、ボランティアの方々への表彰・・・これがオリンピックって思う。影の功労者の苦労をイメージして泣いた。
  • 競技を終えた浅田真央と姉の対面・・・すさまじい重圧だったろうなと、流す涙を見て感じた。
  • 今大会の運営責任者らしき人のメッセージ「勇気をいただいた」・・・まさにこれなんじゃないかって思う。これが伝播、波及するっていう。
  • キム・ヨナのショートの最後の発砲シーンでリアクション・・・ラジオの話。「ウッ」とか声入りすぎwww

あと、全体を通して感じたことは、相手を蹴落として順位を奪い取るといった行為がほぼ見えなかったと感じた。スポーツは特に他人を意識する事が多いものであり、ライバル意識というのは切磋琢磨という意味合いで互いがプラスに作用することがあると思えるが(例を挙げるなら、SASUKEに挑むチャレンジャーの人間関係が理想)、過剰意識が過ぎ、相手に固執してしまうと逆にマイナスに作用し、自分の首が絞まるように思う。一番大事なのは、己のベストを如何にして出すかということであり、ライバルという存在は、それを引き出すための存在、悪い言葉になるとツール(道具)であると感じる。強敵と書いて「とも」と呼ぶ、そんなものだと思う。どのくらい前かは知らないが、100m走の10秒の壁が長いこと切れなかった時に、突如ある選手(だれかは忘れた)が9秒台を叩き出した。まさに人類の快挙である。これは今後も長いこと敗れないものと思っていた矢先、数年にしていとも簡単に更新されてしまう。たとえるなら、先に9秒台を出した選手が10秒の壁を突き破り、開いた穴にいろんな選手が続々と乗り込んできたという感じだろうか。今大会についてもさまざまな競技で続々と記録の更新を目の当たりにし、人間の進歩と可能性を垣間見た。次の五輪ではどのようなドラマが生まれるのか、楽しみであると感じる。
また、自身としても、さまざまなものをいただいた。一握の可能性に気づくことであったり、それに踏み出すための勇気であったり。俺も同じくして、4年後を迎えたときにどうなっているか、その日を迎えたときに「すべてやりきった」「悔いはない」と晴れ晴れとした表情で迎えることがひとつの目標として取り組もうと考えた。きっかけなんて、受け売りだろうが影響だろうがなんでもいい。問題はそれをもって何をするかということと、それを継続していくことであると思っている。
さて、まずは計画から。