The happiness only at that time is unnecessary
また、1kmの帰り道で、もんもんと考えを募らせてしまった。
人生の回顧と言っても、まだまだケツの青い類人猿もどきの人生なんて、小学校の低学年用のプールぐらい浅はかなんだろうけど。
で、解雇じゃない、回顧。
ない。
というのは、鈍器殴打されて記憶喪失なんてわけでも、3歩進んで記憶が飛んじゃう鳥人間でもなしに、「楽しんだ記憶」というものがほとんどないってことですわ。
逆に、真っ先に、そして鮮やかに脳裏に浮かび上がってきたのが「苦しかった」記憶。
ACEONE(水泳教室)からスポーツ少年団(剣道)、部活動に自衛隊の教育期間。
試合で勝って勝利の優越感に酔いしれているときでもなく、負けて悔やんでいるときや、練習のときの最もきつかったとき。
何歩か考えの駒を進めていけば、そういった勝ちや達成感を味わっているときに巡り会うことはあれど、最初に出くわしたのは後者で、思い出していると、苦い思い出が苦虫を噛み潰すときの顔を歪ませたくなる感情にしてくれるわけでもなく、むしろ逆で、今になって湧きどころが分からない達成感のようなものに浸らされた「俺は、これだけのことをしたんだ」的な。
考えていくうちに「もう少しやっとけば」って考えが出るのはお約束で。
若いうちの苦労は買ってでもしろ(買わなくても、求めればいくらでも転がっている気がするが)ってよく言うけど、何となく、何となくだが確かにと思う。
中学からの大事な学習期間を後回しにして時間の盗人になって、役に立たないちりがみとレポート用紙の区別がつかないような俺の脳味噌じゃ、メモしたものもちりがみと間違えてしまいそうだ。
足を止めて悔やんだところで、何も変わらないし周りの変化は止まらないし待っててもくれやしない。
伸るか反るかじゃダメだけど、楽しむなら前向きに苦しむべきなのかな。
このドMが!って言われそうだなこりゃ。
ではでは!!